History

  • 信州ならではの食材でフランス料理を創造していくことが

    1976年オープンから変わらぬコンセプト

    オーナーシェフは1964年東京オリンピック代々木選手村において各国の選手の食事を帝国ホテル村上シェフの下、最年少で担当した経歴を持つ。

    経験豊富なシェフが提供するのは信州の自然と風土を愛しロマンを結集した個性あふれる料理。いつ訪れても新鮮な驚きがあることでしょう。

    店内は大切な人とのお食事からご宴会

    ウエディングまでできる広々とした空間 

    様々なシーンに合わせ演出のご相談も可能

    あたたかな雰囲気のフレンチレストラン

  • 60余年に渡る 

    料理人ムッシュのとっておきのエピソード

     1964年(昭和39年)10月10日

    アジア初のオリンピック東京大会は当時

    史上最多の94ケ国・5133人の選手団を迎えた

     

    代々木公園に設置された選手村には「富士食堂」と「桜食堂」2棟の大食堂がオープン。軽井沢万平ホテルに勤務していたムッシュは団長の帝国ホテル総料理長・故村上信夫氏(⁂)から富士食堂の食事担当者として最年少(23歳)で抜擢された。

     

    初めてお目にかかる村上シェフに「あなたはどんな料理人になりたいのか」とたずねられ「どんな事でも出来るスペシャリストになりたい」と答えると、「それなら選手村で一緒に働こう」」と言われたのが昨日のことのように思い出される。

     

    実はその時、パリの日本大使館付けで渡仏が決まっていたのであったが、村上シェフと出会ったことで、オリンピック選手達に食事を提供する経験など一生ないかもしれないと思い、渡仏を見送ったのでした。オリンピックは人生を変え、過去と未来をつないでいく......

    こうしてムッシュの人生は大きく塗りかえられ

    一生忘れることの出来ないエピソードの数々に

    巡り合うことになる

    オリンピック後の1969年、日本から6人のコックがフランスに渡った。そのうちの1人、村上信夫氏はホテルリッツへ。ムッシュはマキシムドパリへ。村上氏とは東京オリンピックを通じて不思議なご縁であった。

    .

    (⁂)村上信夫氏/帝国ホテルの総料理長を務めた日本におけるフランス料理界の草分け的存在。享年84歳。

  • 作っても作っても・・・の1か月

    印象深いのは、すさまじい食事の❝量❞です

    今では当たり前になったカフェテリア形式を

    オリンピックの選手村に初めて導入したのは

    東京大会でした

    選手は自分の競技と体調に合わせ、それぞれ必要な栄養を必要なだけとるいう、今では定番のスタイルも、当時は初めてのことで、世界のスポーツ選手たちが何をどのぐらい食べるか、正直、読み切れませんでした。情報が圧倒的に不足していたのです。

    とにかく調理に追われる毎日でした。

    続く...

  • 朝の卵料理。スクランブルエッグ、目玉焼き、ハムエッグ、ベーコンエッグ、オムレツ・・・

    作っても作っても ②

    待っていいる人は増えるばかりで、どうにもこうにお間に合いませんでした。調理場は、もう一つの競技場と化していました。フロアで案内していた学生のアルバイト達も、長蛇の列にたちまち青くなっていました。

    また、翌日の朝食の仕込みは、夕食のサービスが終わった後にしますが、あらかじめ50人分の卵を割っておいて、ベーコンをすぐにロースト出来るようにしておくというのが毎日の作業でした。

    そんな量の食事をいっぺんに作るのは、当時は誰にとっても初めてでしたから、非常に衝撃的な経験でした。

    選手村食堂の仕事は準備段階から大会本番まで、

    わずか1ケ月程度でしたが

    私の人生においては

    ❝最長で最大限の可能性❞の中にあったと思います

  • キムチの味付けに苦心・・・

    私が配属された「富士食堂」は、アジアの選手のための食事を提供していました。そこで人気だったのがステーキと海老フライでした。他にオードブル、サラダ、5~6種類のパン、ミルクがスポーツ選手の体を作る基本メニューでしたから、アッという間に空になりました。一方、日本食はというと、当時はまだ世界的に認知されていなかったので、今では定番のお寿司はメニューにありまませんでした。

    当時はほとんどの人が海外へ行った経験がなく、食べたことのない料理がたくさんありました。中でもキムチの味付け、これには困りましたね。その頃は、韓国料理に関する知識がなかったものですから、選手に教わることもありました。また、インドの選手たちのメインディッシュであるカレーを作る際には日本のカレーと違って、サラッとした触感を出す工夫を重ねました。見たこともないスパイスが沢山そろっていて、どの料理人も目を輝かしていました。私を含め、そこにいた料理人たち皆、本当に貴重な経験ができたと思います。

  • 1967年東京オリンピック

    選手村の食堂にみたオリンピックの姿

    料理人として「これがオリンピックなんだ」」と思ったのは、調理場での保存方法が各段に進化していたことです。【冷凍のホウレンソウ】を目にしたのは生まれて初めてでした。日本の食に先端技術が入った瞬間です。

    また、日本全国から腕利きのシェフが集まるというのも、オリンピックならではだと思いました。

    そのことを象徴するエピソードとして、最終日に「すきやき」が振る舞われましたが、シェフの出身地によって調理方法が違うため、味付けはシェフの数だけあったと言われています。

    こうして日本中のシェフが

    世界中のお客様を迎えるために、

    初めてタッグを組んだのが東京大会でした

    また、食事を提供するエリアが国や地域別に分かれていたのも今日とは違う点です。2棟の食堂はそれぞれ6区画、計12区画に分かれていました。ですが、大会の終盤に近付くにつれ、一緒に戦った選手同士、友情が芽生えるのでしょう。だんだんと他のエリアへ出向く選手が増えていったのが印象的です。

    現在の様に最初から

    「垣根のない食堂」

    「コミニュケーションのできる食堂」は

    理想のかたちだと思います